はじめに:なぜ「賃上げ」が中小企業の成長戦略になるのか

近年、日本経済は長年のデフレからの脱却を目指す中で、物価の上昇が顕著になっています。このような状況下で、従業員の生活安定を図り、働く意欲(モチベーション)を維持・向上させることは、企業経営における喫緊の課題です。加えて、少子高齢化に伴う労働力人口の減少は、特に中小企業にとって深刻な人手不足問題を引き起こしており、優秀な人材の確保と定着は、企業の持続的な成長を左右する重要な経営戦略となっています[14]

こうした背景のもと、「賃上げ」は単なるコスト増ではなく、従業員のエンゲージメントを高め、生産性を向上させ、ひいては企業価値そのものを高めるための積極的な「人材投資」として、その重要性を増しています。

国もこの動きを後押しするため、中小企業が賃上げに取り組みやすい環境を整備する目的で「賃上げ促進税制」を設けています。この制度は、企業が従業員の給与等支給額を前年度より増加させた場合に、その増加額の一部を法人税(個人事業主の場合は所得税)から税額控除することで、賃上げに伴う企業の原資負担を軽減し、積極的な人材投資を促進するものです[14, 15, 16]

賃上げ促進税制の効果

賃上げ促進税制を活用することにより、企業は税負担の軽減という直接的なコスト削減効果を得られるだけでなく、従業員の満足度向上、離職率の低下、生産性の向上、そして「人を大切にする企業」としてのイメージ向上といった、目に見えない企業価値の創造にも繋がる可能性があります。

本記事では、令和6年度税制改正でさらに拡充された中小企業向け賃上げ促進税制について、その概要、適用要件、具体的な節税効果、そして最大限に活用するためのポイントを、国税庁、中小企業庁、財務省などが公表している最新情報に基づいて、中小企業の経営者様に分かりやすく解説いたします。

賃上げ促進税制の基本:誰が、どんな場合に使えるのか?

中小企業向け賃上げ促進税制は、青色申告書を提出している中小企業者等が、前年度と比較して従業員への給与等支給額を増加させた場合に、その増加額の一部を法人税額(個人事業主の場合は所得税額)から税額控除できる制度です[15]

対象となる「中小企業者等」

主に以下の要件を満たす法人または個人事業主を指します[15, 17]

  • 資本金の額または出資金の額が1億円以下の法人(ただし、大規模法人の子会社等でないこと)[15, 17]
  • 資本または出資を有しない法人のうち、常時使用する従業員数が1,000人以下の法人[15, 17]
  • 常時使用する従業員数が1,000人以下の個人事業主[15, 17]
  • 農業協同組合なども対象となります[15, 17]
重要な注意点
その事業年度開始の日前3事業年度の所得金額の年平均額が15億円を超える法人は、この税制の適用対象外となります[17]

適用期間

令和6年4月1日から令和9年3月31日までの間に開始する各事業年度(個人事業主の場合は令和7年から令和9年までの各年)が対象となります[15, 17, 16]

令和6年度改正の画期的な特徴:5年間の繰越控除制度

今回の令和6年度改正における大きな特徴の一つは、この適用期間が3年間と比較的長期に設定されたことに加え、新たに5年間の繰越控除制度が導入された点です[14, 17, 18, 16]。これは、賃上げを実施した年度に税額控除しきれなかった金額がある場合、翌年度以降5年間にわたって繰り越して控除できるというもので、特に赤字企業や利益が少ない中小企業にとっては非常に意義深い改正と言えます。

政府の政策的意志

これらの制度設計からは、政府が一過性ではない「構造的・持続的な賃上げ」を中小企業に強く促しているという明確な政策的意志が読み取れます[14]。適用期間を3年とし、さらに赤字企業でも将来的に税制の恩恵を受けられるように5年間の繰越控除を設けたことは、体力的に厳しい状況にある中小企業に対しても、計画的かつ継続的な賃金改善に取り組むインセンティブを与えるための配慮と言えるでしょう。

税額控除の仕組み:令和6年度改正のポイントと節税効果

中小企業向け賃上げ促進税制では、基本となる控除に加えて、企業の積極的な取り組みを評価する上乗せ措置が設けられており、これらを組み合わせることで大きな節税効果が期待できます。

控除の基本要件と控除率

税額控除を受けるための必須要件と、それに応じた控除率は以下の通りです[18, 16]

  • 雇用者給与等支給額が前年度と比較して1.5%以上増加した場合:その増加額の15%を税額控除
  • 雇用者給与等支給額が前年度と比較して2.5%以上増加した場合:その増加額の30%を税額控除

上乗せ措置

上記の基本控除に加えて、以下の要件を満たすことで、控除率がさらに上乗せされます[18, 16]

教育訓練費の上乗せ措置

国内雇用者の教育訓練費の額が前年度と比較して5%以上増加しており、かつ、その教育訓練費の額が当期の雇用者給与等支給額の0.05%以上である場合:控除率が10%上乗せされます[18, 16]

対象となる教育訓練費の例としては、外部講師への謝金、研修への参加費用(旅費交通費等)、外部施設の使用料、教材の購入・製作費用などが挙げられます[19]

子育て両立・女性活躍支援の上乗せ措置

仕事と子育ての両立支援や女性の活躍推進に積極的に取り組んでいる企業に対する上乗せ措置です。具体的には、厚生労働大臣が認定する以下のいずれかの認定を受けている場合:

  • プラチナくるみん認定
  • くるみん認定
  • プラチナえるぼし認定
  • えるぼし認定(3段階目以上など、一定の基準あり)

これらの認定を受けている場合:控除率が5%上乗せされます[17, 18, 16]

最大控除率と税額控除の上限

これらの基本控除と上乗せ措置を組み合わせることで、中小企業の場合、最大で45%(給与2.5%以上増加で30% + 教育訓練費増で10% + 子育て・女性活躍支援で5%)という非常に高い税額控除率の適用が可能となります[18, 16]

ただし、税額控除できる金額には上限があり、その事業年度の法人税額(または所得税額)の20%が限度となります[14, 18, 16]

中小企業向け賃上げ促進税制 税額控除率一覧(令和6年度改正版)

必須要件
(雇用者給与等支給総額の前年度比)
基本控除率 上乗せ措置①
教育訓練費の増加
(前年度比5%以上増加等)
上乗せ措置②
子育て両立・女性活躍支援
(くるみん・えるぼし認定等)
合計最大控除率
1.5%以上増加 15% +10% +5% 30%
2.5%以上増加 30% +10% +5% 45%

注:税額控除額は、その事業年度の法人税額(または所得税額)の20%が上限です[14, 18, 16]。控除しきれなかった金額は、5年間繰り越して控除することが可能です[14, 17, 18, 16]

【令和6年度改正の最大の目玉】5年間の繰越控除

前述の通り、令和6年度税制改正における最大のポイントの一つが、5年間の繰越控除制度の導入です[14, 17, 18, 16]

これは、賃上げを実施した年度の法人税額が少なかったり、赤字であったりして、算出された税額控除額を全額控除しきれなかった場合に、その控除しきれなかった金額を翌年度以降5年間にわたって繰り越して控除できるというものです。

この措置により、これまで賃上げ促進税制の恩恵を受けにくかった赤字企業や利益が少ない中小企業でも、将来的に経営状況が改善し黒字化した際に、過去の賃上げ努力が税負担の軽減という形で報われる道が開かれました。

重要な用語の定義

この制度を正しく理解し適用するためには、いくつかの重要な用語の定義を把握しておく必要があります[17]

給与等

俸給、給料、賃金、歳費及び賞与、並びにこれらの性質を有する給与(所得税法第28条第1項に規定する給与等)を指します。原則として退職金は含まれません。実務上は、賃金台帳に記載された支給額(所得税法上課税されない通勤手当等の額を含む)のみで計算するなど、合理的な方法により継続して計算することも認められています。

雇用者給与等支給額

適用事業年度における全ての国内雇用者に対する給与等の支給総額をいいます。ただし、国や地方公共団体からの補助金等で給与等に充てるために補填された金額がある場合は、その補填額を控除します。なお、雇用調整助成金や産業雇用安定助成金などは、この補填額には含まれず、給与等支給額から控除する必要はありません。

国内雇用者

法人の使用人のうち、その法人の国内に所在する事業所につき作成された賃金台帳に記載された者を指します。パートタイマー、アルバイト、日雇い労働者も含まれますが、役員及び役員の特殊関係者(役員の親族など)は含まれません。

申請手続きと必要書類

中小企業向け賃上げ促進税制の適用を受けるためには、法人税(または所得税)の確定申告の際に、所定の書類を添付して申告する必要があります。

手続きの概要

特別な事前申請や認定は原則として不要です。確定申告時に、税額控除の適用を受ける旨を申告し、必要な計算明細書等を添付します。

主な必要書類

  • 法人税申告書別表のうち、本税制の適用に関する様式(例:国税庁が提供する「給与等の支給額が増加した場合の法人税額の特別控除に関する明細書」など。年度や法人形態により様式番号が異なる場合があります)
  • 適用額の計算に関する明細書(上記別表に内包または付随する形で詳細な計算過程を示すもの)

上乗せ措置の適用を受ける場合の追加書類

教育訓練費の上乗せ

教育訓練費の額やその増加割合、給与総額に対する割合などを明らかにする書類(例:教育訓練計画書、費用支出の証拠書類、賃金台帳など)

子育て両立・女性活躍支援の上乗せ

くるみん認定やえるぼし認定などを受けたことを証する認定通知書の写しなど[15, 17]

中小企業庁のガイドブック・Q&Aの活用

中小企業庁は、この税制の利用を促進するために「中小企業向け賃上げ促進税制ご利用ガイドブック」や「中小企業向け賃上げ促進税制よくあるご質問Q&A」といった詳細な手引きを公表しています[15]。これらの資料には、制度の詳しい解説、対象となる給与等の範囲、具体的な計算例、Q&Aなどが豊富に盛り込まれており、制度理解や申告準備において非常に役立ちます。令和6年度改正に対応した最新版は、令和6年9月20日に更新されていますので、必ず最新のものを参照するようにしてください[15]

奨学金返還支援制度との連携

注目すべき点として、企業が従業員の貸与型奨学金の返還を代理で行う(肩代わりする)場合に、その支援に充てる経費が、この賃上げ促進税制における「給与等支給額」の対象となることが明示されています[15]。これは、若手従業員の経済的負担を軽減し、定着を促すための有効な手段となり得ると同時に、税制上のメリットも享受できる可能性があるため、積極的な活用が期待されます。

賃上げ促進税制を最大限に活かすための戦略

賃上げ促進税制は、単に税金が安くなるというだけでなく、企業の成長戦略と深く結びつけて活用することで、その効果を最大限に引き出すことができます。

計画的な賃上げと人材投資の実施

税制の恩恵を最大限に受けるためには、場当たり的な賃上げではなく、中長期的な人事戦略に基づいた計画的な賃上げと、教育訓練プログラムの充実や働きやすい職場環境の整備といった人材への投資を組み合わせることが重要です。これにより、税額控除率の上乗せも期待でき、より大きな節税効果に繋がります。

資金繰りへの影響の考慮

賃上げは、企業にとって固定費の増加を意味します。税制による税負担の軽減はありますが、実際に税金が還付されたり納付額が減ったりするタイミングと、賃金支払いのタイミングにはズレが生じます。新たに導入された5年間の繰越控除は、特にキャッシュフローが不安定な中小企業にとっては朗報ですが[14, 17, 18, 16]、それでも賃上げが資金繰りに与える影響は慎重に評価し、計画的に進める必要があります。

従業員への積極的な情報開示とエンゲージメント向上

賃上げを実施する際には、その事実だけでなく、企業が人材を大切にし、積極的に投資しようとしている姿勢を従業員に明確に伝えることが重要です。これにより、従業員の企業に対する信頼感やエンゲージメントが高まり、結果として生産性の向上や離職率の低下に繋がる可能性があります。

採用競争力の強化

積極的な賃上げや、教育訓練制度の充実、子育て支援といった働きやすい環境整備への取り組みは、企業の社会的な評価を高め、採用市場における魅力を向上させる効果も期待できます[19]。人手不足が深刻化する中で、優秀な人材を惹きつけ、確保するためには、このような「人を大切にする経営」をアピールすることが不可欠です。

戦略的視点の重要性

賃上げ促進税制の活用は、企業が直面する人件費上昇という課題に対応しつつ、それを「守り」のコスト管理から、人材を企業の最も重要な「資本」と捉え、積極的に投資する「攻めの人事戦略」へと転換する絶好の機会を提供します。特に、令和6年度改正で導入された5年間の繰越控除は、財務基盤が必ずしも盤石ではない中小企業に対しても、赤字の年度があっても将来の黒字化を見据えた長期的な視点での人材投資を可能にさせる点で、画期的と言えるでしょう[14, 17, 18, 16]

最新情報と相談窓口

中小企業向け賃上げ促進税制は、令和6年度税制改正により大幅に拡充され、中小企業にとってより使いやすく、メリットの大きい制度へと進化しました。

令和6年度税制改正の重要性

本記事で解説してきた内容は、この令和6年度税制改正(令和6年4月1日から令和9年3月31日までの間に開始する事業年度が対象)を前提としています[14, 15, 17, 16]。特に、5年間の繰越控除制度の新設や、上乗せ措置の内容は、以前の制度から大きく変わっている点に注意が必要です。

信頼できる情報源

制度の正確な内容や最新情報については、以下の国の機関が公表する一次情報を必ず確認するようにしてください:

  • 中小企業庁:「中小企業向け賃上げ促進税制ご利用ガイドブック」「中小企業向け賃上げ促進税制よくあるご質問Q&A集」(令和6年9月20日更新版など最新版)[15]
  • 財務省・経済産業省:各年度の税制改正に関する公式資料(令和6年度税制改正大綱など)[14]
  • 国税庁ウェブサイト:関連するタックスアンサーやパンフレット(例:国税庁「令和6年度 中小企業向け賃上げ促進税制のご利用ガイドブック」[17] - 国税庁ウェブサイトで最新版をご確認ください。)

相談窓口

制度の適用に関する具体的な判断や申告手続きについては、専門的な知識が必要です。不明な点があれば、以下の相談窓口を活用しましょう:

  • 中小企業税制サポートセンター:電話 03-6281-9821(受付時間 平日9:30~12:00、13:00~17:00)[15]
  • 顧問税理士等の専門家

まとめ:人材投資を未来への投資へ

中小企業向け賃上げ促進税制は、現代の経営環境において中小企業が直面する人件費上昇の課題に対応しつつ、従業員という最も重要な経営資源への投資を促進し、企業の持続的な成長を力強く支援する制度です。

令和6年度税制改正により、最大45%という高い控除率、そして何よりも5年間の繰越控除制度が導入されたことで、これまで以上に多くの中小企業がこの制度の恩恵を受けやすくなりました。これは、国が中小企業の賃上げを本気で後押しし、それを通じて日本経済全体の活性化と構造的な賃上げの実現を目指していることの表れと言えるでしょう[14]

経営者の皆様には、この拡充された賃上げ促進税制を、単なる節税策としてではなく、人材育成、従業員満足度の向上、そして企業競争力の強化に繋がる戦略的な「未来への投資」と捉え、積極的に活用していただくことを期待します。計画的な賃上げと人材投資は、必ずや貴社の成長を加速させる原動力となるはずです。

免責事項
本記事は、2025年5月30日時点で公開されている情報に基づき作成されています。税制は改正される場合がありますので、最新の情報は必ず管轄の税務署や税理士、関連省庁のウェブサイト等でご確認いただくようお願いいたします。本記事の情報に基づいて被ったいかなる損害についても、執筆者および発行者は一切の責任を負いかねますのでご了承ください。